道路レポート [ORJ連動企画] 束松峠 「昭和新道」  序

所在地 福島県耶麻郡西会津町〜河沼郡会津坂下町
探索日 2007.5.12
公開日 2008.4.14

 束松(たばねまつ)は、会津地方(福島県)と越後地方(新潟県)を結ぶ越後街道(会津街道)の由緒正しい峠道で、海抜は465m。
会津盆地の西隅に位し、古くから政治、文化、生活、軍事に関わるあらゆる交通が往来した。【位置】
現在も峠のほぼ真下を磐越自動車道の束松トンネルが貫き、クルマの流れは絶えない。
しかし、この歴史ある峠に“在来線”は無い。 少なくとも、車が通れるような道は。

 自動車専用道路である磐越自動車道の在来線は国道49号で、束松トンネルの約1km南をやはり峠で越えている。
この峠は「藤峠」という名で呼ばれ、明治16年に開通した「会津三方道路」に起源を持つ。
会津三方道を造らせたのはオブローダーなら誰でも知ってる、かの三島通庸(みしまみちつね)。(明治期の藤峠は『山さ行がねが 道路レポート 国道49号旧道 藤峠』を参照のこと)
束松峠は、藤峠が開削されたために越後街道としての要職を追われ、以来百余年のあいだ細々と残されてきた旧代の峠道である。
故に、車道改良も成されず今日に至る。実は昭和末頃に申し訳程度の県道指定(一般県道341号「別舟渡(わかれ・ふなと)線」)の指定を受けているが、「自動車交通不能区間」の万年在籍者だ。

 しかしこの束松峠には、時世に懐柔されるを潔しとせぬ「会津気質」(地域性)が産んだ“意地の痕”が、大地に深く刻みつけられている。
全長百三十間(約230m)の束松洞門(束松隧道)は、明治17年から27年まで10年をかけて、峠の麓にある束松・片門(かたかど)村の人々が、ほとんど独力で掘り抜いたもので、明治期の道路隧道として希有な例である。
この隧道は現存しており、崩壊著しい内部には村人達の未熟と苦心惨憺が、複数の「洞内分岐」(…誤った掘削痕)として残されている。

 この隧道を含む約5kmの明治新道は、藤峠に負けぬ馬車通行の可能な道として切りひらかれたが、完成後も長らく無冠であった。明治・大正・昭和初期まで繰り返し陳情された県道指定がようやく実現した昭和62年には、もう全てが終わっていた。
残ったのは、車の通れぬ県道と、崩れた隧道だけだった。

 この1.明治新道を中心に、伝統の2.越後街道、そして3.未成県道バイパスの行き先無き工事跡。これらをまとめて探索したレポートを同人誌【ORJ-日本の廃道- vol.24 (2008年4月15日発行)】に掲載した。是非お読みいただきたい。
また、同探索の模様は平成19年秋にNHK-BSで放送された『熱中時間』にも一部紹介されており、タフな取材スタッフ4名を加えた5人での行動であった。この収録の裏話も、同レポートの見所だ。(以上宣伝終わり)


 クルマの越えられぬ束松峠に残された、3世代3本の道。
しかし、この峠には、第4の道 昭和新道 があったのかも知れない。
それが、今回の“お題”だ。

 それは、こんな(↑)ルートではなかったか。



 これまで、完全に踏破したという報告が無い昭和新道は、果たしてどんな道なのか。
そもそもそれは本当に、名前の通りの昭和の新道なのか?
まずは、この道がなぜ「昭和新道」と通称されるようになったのかを明かさねばなるまい。
発端は、おそらく『街道Web』管理人TUKA氏だ。
彼が「昭和新道」を“見出した”一連の流れは氏のサイトにも紹介されているが、今回私がそれを再現してみよう。


 まずは、「昭和新道」が最新の2.5万分の1地形図にどのように表示されているかだが、右図の赤い矢印で示したのがそれだ。

 明治新道など、県道でありながら“毛”ほども書かれていないのに、昭和新道は点線としてではあるが、峠を越える道として全線が描かれている。
しかも、「全体的に車道っぽい線形」で描かれている気もする。「ありそう」と思わせる何かがある。


 氏から借りてきた画像にちょっと手を入れたのが右。

元の画像は最新ではない…おそらく数年ほど前の2.5万分の1地形図(『うぉっちず』)だが、「束松峠」の注記の位置に注目していただきたい。
明らかに、その注記は「昭和新道」に対して示されているではないか。
現在も歴史の道として歩くことが出来る「越後街道」(峠を唯一藪漕ぎせず越えられる道)の峠には何ら表記はない。
おそらく利用者からクレームがあって国土地理院が訂正したのであろうが、ともかくこの峠名表記の旧位置は、昭和新道に対する氏の興味の発端となった。

 なお、現在市販の多くの道路地図や、例えば冒頭でリンクを貼ったマピオンなども、未だこの旧表記位置を引きずっている。(証拠画像…『スーパーマップルデジタル8』より)


 だが、これだけでは単に地図の表記ミスという線も考えられる。
まだ、「昭和新道」という名前を連想させるものには出会っていない。

 氏を真に開眼させたのは、氏がその活動の軸足として愛用する『歴史の道調査報告書』の表記だった。

昭和四十八年修正測量の二万五千分の一地形図を資料とした五万分の一地形図で、束松峠の注記がある所は、戦後開設の新しい峠である。  『福島県教育委員会編 歴史の道調査報告書 越後街道』より

 ここから「昭和新道」という呼称が出て来たことは、想像に難くない。
歴史のプロ達もまた、束松峠を調査する上で「峠名表記の位置」に注目し、これについて「戦後開設の新しい峠」という調べをしていたのだ。
こうなってくると、もっと踏み込んだ情報が当然欲しくなってくる。


 氏はその後何度か現地に赴き、昭和新道の正体を探る探索を行った。
その成果が数編のレポートに纏められている。
その中で、「昭和新道の正体は天屋林道なのではないか」という、おそらく核心を突く発見をなされている。

 今回の私の探索は、氏が途中で断念した踏査を補完する(=昭和新道の完全踏査)ことを目的に行ったものであり、また事情により“まともに紹介できない部分が生じた”(←本編で後述)ので、氏のレポートを先にご覧になることをオススメしたい。 
※『街道web』へ直リンク ⇒(東側1 /西側1


 また、彼の成果をモニタ越しに見つめながら、私もただ指をくわえていたのではない。
東京に引っ越してきた地の利を活かし歴代地形図の悉皆調査という作戦に出た。
現状では道筋を見出すことも容易でない、相当に荒廃した道になっているようだが、代々の地形図を見直していけば、道がいつ、どのような規模で開通したのかが分かると踏んだのである。


 上図やばい!

昭和43年版地形図が、昭和新道を “国道の次に太い路” (=県道) として描いていたのだ。(後の版ではいきなり点線になるが…)
氏がこれを見ていたかは分からないが、この図を見れば誰だって思うだろう。

  「昭和新道」は戦後の新しい車道の峠。 それも、県道だった。



 国土地理院により二重のお墨付き(1.束松峠銘の表記位置、2.昭和43年地形図の道の太さ)を与えられた「昭和新道」へ、

 私はチャリとともに、西から挑んだ!